中学生の頃生徒として通っていた能開センターに大学生となった私が講師として帰ってこれました。学校教諭を目指していた私に数学の講師として働く機会を与えてくださったからです。数学を教えるという経験が乏しかった私に「確率は表にまとめて考えさせる」「チョークの色を効果的に使い分けて視覚的な理解を促す」などの教えるイロハを教えてくださりました。そのようなたくさん教わった中でも最も考えさせられたのは「持ち帰ったノートを生徒が見て、先生の教えてくれたことを再度理解できる板書を作ることが大事」ということです。これは公立高校の教諭として働く私が今でも大事にしていることです。能開センターでの講師経験が私の「教える」原点です。
その他のエピソード
生徒とともに歩んだ時間
小学生の頃から通い続け、高校卒業まで成長を見守った生徒がいます。 その後、指導者としてこの場所に戻ってきてくれたときは、言葉にできないほど嬉しく、この仕事のやりがいを改めて実感した瞬間でした。 また、在籍期間は決して長くはなかったものの、進路に悩みながらも、勉強のことだけでなく学校生活や将来について、いろいろな話をしてくれた生徒もいました。 その一つひとつの言葉から、葛藤や前向きな気持ちが伝わってきたことが、今でも印象に残っています。 こうして振り返ると、これまで出会ってきた生徒一人ひとりの成長を近くで見守ることができたことは、私にとってかけがえのない財産です。 そして、そのような経験を積ませてくれたこの環境や会社に、心から感謝しています。 これからも、生徒それぞれの歩みに寄り添いながら、小さな変化や成長を大切にし、一人ひとりと真摯に向き合っていきたいと思います。
生徒とともに歩んだ時間
小学生の頃から通い続け、高校卒業まで成長を見守った生徒がいます。 その後、指導者としてこの場所に戻ってきてくれたときは、言葉にできないほど嬉しく、この仕事のやりがいを改めて実感した瞬間でした。 また、在籍期間は決して長くはなかったものの、進路に悩みながらも、勉強のことだけでなく学校生活や将来について、いろいろな話をしてくれた生徒もいました。 その一つひとつの言葉から、葛藤や前向きな気持ちが伝わってきたことが、今でも印象に残っています。 こうして振り返ると、これまで出会ってきた生徒一人ひとりの成長を近くで見守ることができたことは、私にとってかけがえのない財産です。 そして、そのような経験を積ませてくれたこの環境や会社に、心から感謝しています。 これからも、生徒それぞれの歩みに寄り添いながら、小さな変化や成長を大切にし、一人ひとりと真摯に向き合っていきたいと思います。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
生徒とともに歩んだ時間
小学生の頃から通い続け、高校卒業まで成長を見守った生徒がいます。 その後、指導者としてこの場所に戻ってきてくれたときは、言葉にできないほど嬉しく、この仕事のやりがいを改めて実感した瞬間でした。 また、在籍期間は決して長くはなかったものの、進路に悩みながらも、勉強のことだけでなく学校生活や将来について、いろいろな話をしてくれた生徒もいました。 その一つひとつの言葉から、葛藤や前向きな気持ちが伝わってきたことが、今でも印象に残っています。 こうして振り返ると、これまで出会ってきた生徒一人ひとりの成長を近くで見守ることができたことは、私にとってかけがえのない財産です。 そして、そのような経験を積ませてくれたこの環境や会社に、心から感謝しています。 これからも、生徒それぞれの歩みに寄り添いながら、小さな変化や成長を大切にし、一人ひとりと真摯に向き合っていきたいと思います。
生徒とともに歩んだ時間
小学生の頃から通い続け、高校卒業まで成長を見守った生徒がいます。 その後、指導者としてこの場所に戻ってきてくれたときは、言葉にできないほど嬉しく、この仕事のやりがいを改めて実感した瞬間でした。 また、在籍期間は決して長くはなかったものの、進路に悩みながらも、勉強のことだけでなく学校生活や将来について、いろいろな話をしてくれた生徒もいました。 その一つひとつの言葉から、葛藤や前向きな気持ちが伝わってきたことが、今でも印象に残っています。 こうして振り返ると、これまで出会ってきた生徒一人ひとりの成長を近くで見守ることができたことは、私にとってかけがえのない財産です。 そして、そのような経験を積ませてくれたこの環境や会社に、心から感謝しています。 これからも、生徒それぞれの歩みに寄り添いながら、小さな変化や成長を大切にし、一人ひとりと真摯に向き合っていきたいと思います。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。