創立50周年を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます。
私は親戚の紹介をきっかけに、小学4年生より能開センターにお世話になりました。当初は軽い気持ちで通い始めましたが、個性豊かな先生方による面白く、かつ知的好奇心を刺激する授業に、次第に惹かれていきました。難問を解けずに悔し涙を流したこともありましたが、いつしか全身が学ぶことの楽しさに満ち溢れていました。
また、学習指導のみならず、あいさつの大切さや挑戦する姿勢など、人生を歩むうえで必要不可欠なことを教えていただきました。「会員五訓」は、現在に至るまで私の行動指針の一つとなっています。
その後、講師としても5年間勤務する機会をいただきました。先輩の先生方からは、授業力はもとより、教育に向き合う姿勢や人との関わり方など、幅広いご指導を賜り、私自身の人生観を大きく広げていただきました。この経験を通して、生徒の学びへの興味・関心を高めることへの探究心が一層深まり、現在は同志社香里中学校・高等学校において、数学教育を通じて日々研鑽を重ねております。
私の人生に多大な影響を与えてくださった能開センターが、今後ますます発展されることを、心よりお祈り申し上げます。
その他のエピソード
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。