沖縄への転勤が決まった2011年の国立大学前期の合格発表、佐賀大学医学部医学科を志望していた生徒が不合格で目の前で号泣。後期も同大学の同じ学科を受験すると言う。
試験は面接だけ。最後のアドバイスは「女優になれ」。
募集要項には佐賀大学医学部医学科の求める人物像が書いてあったので、その通りの人物を演じるようにアドバイス。
沖縄の首里校へ赴任した後、三日月校の後任の校責T先生から電話。例の生徒が合格したので本人が話したいと来校しているとのこと。電話でおめでとうとお祝いの言葉をかけ、ご自宅の保護者にもお祝いの電話。その後島根に転勤になり、彼女が出雲大社へ旅行に来たついでに学園通り校に遊びに来てくれた。どこにいても心のつながりが感じられるエピソード。
その他のエピソード
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
あったかい居場所でした!
高校受験のときには生徒としてお世話になり、大学時代には事務スタッフとしてお世話になったので、能開での思い出は一言では語れません! 何より言えるのは、ただ単に勉強の科目を教えてもらうだけでなく、先生とのコミュニケーションも深かったからこそ、能開での時間は当時の私の生活の一部になっていたなと思います。どの先生方も個性的で楽しく、相談すれば親身になってくれる人ばかりでした。 個人的には教え方云々よりも、先生が大好きだから勉強も頑張ろうと思えたし、アルバイトでもいいからまた戻りたいと思って雇っていただいたんだろうなぁと感じます。 そのおかげで、私は二児の母になりましたが、子供を塾に行かせるなら絶対能開と思ってます!(残念ながら最寄りにはなさそうですが) ワオコーポレーションが50周年になるとのことで、お祝いしたい嬉しさと同時に、郡山校が閉校するのは寂しく感じています。また先生方にお会いできると思ってますので、その日までお元気でお過ごしください!
あったかい居場所でした!
高校受験のときには生徒としてお世話になり、大学時代には事務スタッフとしてお世話になったので、能開での思い出は一言では語れません! 何より言えるのは、ただ単に勉強の科目を教えてもらうだけでなく、先生とのコミュニケーションも深かったからこそ、能開での時間は当時の私の生活の一部になっていたなと思います。どの先生方も個性的で楽しく、相談すれば親身になってくれる人ばかりでした。 個人的には教え方云々よりも、先生が大好きだから勉強も頑張ろうと思えたし、アルバイトでもいいからまた戻りたいと思って雇っていただいたんだろうなぁと感じます。 そのおかげで、私は二児の母になりましたが、子供を塾に行かせるなら絶対能開と思ってます!(残念ながら最寄りにはなさそうですが) ワオコーポレーションが50周年になるとのことで、お祝いしたい嬉しさと同時に、郡山校が閉校するのは寂しく感じています。また先生方にお会いできると思ってますので、その日までお元気でお過ごしください!
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
小学生の頃の課題図書の話
小学生の頃、1クールに一冊ほど、本を教材として配布されていました。その中でも、いちばん強く記憶に残っているのが『ファーブル昆虫記』です。たしか、フンコロガシの話だったと思います。読書が大の苦手だった私は、本を手渡された瞬間から気が重く、「読む」という行為そのものに強い抵抗を感じていました。案の定、ろくに読まずにいたところ、当時の国語担当だったK谷先生に、ものすごい剣幕で怒られました。そのときの表情と声の大きさは、今でもはっきりと思い出せます。頑張っては読んだのですが、当時の私にはその本の面白さがまったく分かりませんでした。「いったい、これに何の意味があるんだろう」そんな気分で、ただページをめくっていた気がします。今になって考えると、小学生にあの分量の本を読ませるのは、少し酷だった気もしますが、国語が苦手なままの今の自分を見ていると、あの頃の読書が大切だったことをつくづく感じます。今、私はニュース原稿を書く仕事をしています。拙い国語力で文章と向き合いながら、もしあの頃もっと本を読んでいたら、こんなに苦労せずに済んだのだろうか、などと考えることがあります。『ファーブル昆虫記』も、今読み返せば、また違った景色が広がっているのかもしれません。
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
喜びの共有
校責をしていた頃、受験に関わることのやりがいとして、生徒の人生の一部に影響を与えることができ、合格の喜びを生徒・スタッフと一緒に分かち合えることが挙げられます。 子どもたちの成績が上がった時、成長を感じられた時、行動が変わった時、困難を乗り越えた時にひとときの達成感があり、これを継続したいという想いに駆られます。 職種はどれでも、人財育成、成績向上、地域貢献に役立てる存在でありたい。今後もワオみんなで協力しながら盛り上げていきましょう!
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
あったかい居場所でした!
高校受験のときには生徒としてお世話になり、大学時代には事務スタッフとしてお世話になったので、能開での思い出は一言では語れません! 何より言えるのは、ただ単に勉強の科目を教えてもらうだけでなく、先生とのコミュニケーションも深かったからこそ、能開での時間は当時の私の生活の一部になっていたなと思います。どの先生方も個性的で楽しく、相談すれば親身になってくれる人ばかりでした。 個人的には教え方云々よりも、先生が大好きだから勉強も頑張ろうと思えたし、アルバイトでもいいからまた戻りたいと思って雇っていただいたんだろうなぁと感じます。 そのおかげで、私は二児の母になりましたが、子供を塾に行かせるなら絶対能開と思ってます!(残念ながら最寄りにはなさそうですが) ワオコーポレーションが50周年になるとのことで、お祝いしたい嬉しさと同時に、郡山校が閉校するのは寂しく感じています。また先生方にお会いできると思ってますので、その日までお元気でお過ごしください!
あったかい居場所でした!
高校受験のときには生徒としてお世話になり、大学時代には事務スタッフとしてお世話になったので、能開での思い出は一言では語れません! 何より言えるのは、ただ単に勉強の科目を教えてもらうだけでなく、先生とのコミュニケーションも深かったからこそ、能開での時間は当時の私の生活の一部になっていたなと思います。どの先生方も個性的で楽しく、相談すれば親身になってくれる人ばかりでした。 個人的には教え方云々よりも、先生が大好きだから勉強も頑張ろうと思えたし、アルバイトでもいいからまた戻りたいと思って雇っていただいたんだろうなぁと感じます。 そのおかげで、私は二児の母になりましたが、子供を塾に行かせるなら絶対能開と思ってます!(残念ながら最寄りにはなさそうですが) ワオコーポレーションが50周年になるとのことで、お祝いしたい嬉しさと同時に、郡山校が閉校するのは寂しく感じています。また先生方にお会いできると思ってますので、その日までお元気でお過ごしください!