沖縄への転勤が決まった2011年の国立大学前期の合格発表、佐賀大学医学部医学科を志望していた生徒が不合格で目の前で号泣。後期も同大学の同じ学科を受験すると言う。
試験は面接だけ。最後のアドバイスは「女優になれ」。
募集要項には佐賀大学医学部医学科の求める人物像が書いてあったので、その通りの人物を演じるようにアドバイス。
沖縄の首里校へ赴任した後、三日月校の後任の校責T先生から電話。例の生徒が合格したので本人が話したいと来校しているとのこと。電話でおめでとうとお祝いの言葉をかけ、ご自宅の保護者にもお祝いの電話。その後島根に転勤になり、彼女が出雲大社へ旅行に来たついでに学園通り校に遊びに来てくれた。どこにいても心のつながりが感じられるエピソード。
その他のエピソード
善き未来へ向けて
この度は創立50周年おめでとうございます。私は小学5年生で生徒として入塾し高校受験、大学受験の生徒として、そして大学以降はチューターとして大学院卒業までお世話になりました。思えば人生の14年間という非常に長い時間を能開センターに関わらせていただきました。仲間たちと切磋琢磨し夢に向かって勉学に励んだ生徒時代、そんな子どもたちを支えるお手伝いをしたチューター時代、能開センターで過ごした時間は私にとってかけがえのない時間でした。 明るい未来を作るのはいつだって若い子どもたちだと思っています。これからも、未来へ感動の輪を広げ善き未来を作るために、子どもたちの夢を叶えるサポートを続けていただけることを願っております。ワオ・コーポレーションの益々のご発展をお祈り申し上げます。
善き未来へ向けて
この度は創立50周年おめでとうございます。私は小学5年生で生徒として入塾し高校受験、大学受験の生徒として、そして大学以降はチューターとして大学院卒業までお世話になりました。思えば人生の14年間という非常に長い時間を能開センターに関わらせていただきました。仲間たちと切磋琢磨し夢に向かって勉学に励んだ生徒時代、そんな子どもたちを支えるお手伝いをしたチューター時代、能開センターで過ごした時間は私にとってかけがえのない時間でした。 明るい未来を作るのはいつだって若い子どもたちだと思っています。これからも、未来へ感動の輪を広げ善き未来を作るために、子どもたちの夢を叶えるサポートを続けていただけることを願っております。ワオ・コーポレーションの益々のご発展をお祈り申し上げます。
出会い、学びの場
ある日、突然見知らぬお二人が「●●先生とという方はおいでですか?」と私を尋ねてこられました。 話を聞くと、TさんとHくんという、私が中3時に担当をした2人が晴れて結婚をすることになったとのこと。 その2人が「僕たちの出会いは能開センターという塾だった」「その塾で●●先生にすごくお世話になった」「能開はすごく楽しかった」と話をしているらしく、それを聞いたお二人が披露宴でサプライズの「ビデオレター」を届けたい、と尋ねてくれたのです。 TさんとHくんのことは私もよく覚えており、驚くとともにっても幸せな気持ちになったことを、今も覚えています。 ビデオレターの撮影の件は、もちろん引き受けさせてもらいました。 後日、TさんとHくんがビデオレターのお礼と、そろって校舎に来てくれて昔話に花が咲きました。 卒業後、何年も経っているのに「お世話になった方」として覚えてもらえていること、そして結婚の報告をわざわざしてもらえたことは本当にうれしかったです。 能開センターは学びの場です。そして同時に出会いの場です。 その出会いが、子ども達の人生に大きな影響を与えることは少なくありません。 私たちの存在が、他人の人生に少しでも影響を与えられるとするならば、こんな素敵な仕事はないのではないでしょうか? これからも子ども達にとって、出会い、学び、成長する能開センターでありたいと思います。
出会い、学びの場
ある日、突然見知らぬお二人が「●●先生とという方はおいでですか?」と私を尋ねてこられました。 話を聞くと、TさんとHくんという、私が中3時に担当をした2人が晴れて結婚をすることになったとのこと。 その2人が「僕たちの出会いは能開センターという塾だった」「その塾で●●先生にすごくお世話になった」「能開はすごく楽しかった」と話をしているらしく、それを聞いたお二人が披露宴でサプライズの「ビデオレター」を届けたい、と尋ねてくれたのです。 TさんとHくんのことは私もよく覚えており、驚くとともにっても幸せな気持ちになったことを、今も覚えています。 ビデオレターの撮影の件は、もちろん引き受けさせてもらいました。 後日、TさんとHくんがビデオレターのお礼と、そろって校舎に来てくれて昔話に花が咲きました。 卒業後、何年も経っているのに「お世話になった方」として覚えてもらえていること、そして結婚の報告をわざわざしてもらえたことは本当にうれしかったです。 能開センターは学びの場です。そして同時に出会いの場です。 その出会いが、子ども達の人生に大きな影響を与えることは少なくありません。 私たちの存在が、他人の人生に少しでも影響を与えられるとするならば、こんな素敵な仕事はないのではないでしょうか? これからも子ども達にとって、出会い、学び、成長する能開センターでありたいと思います。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
「教える」原点
中学生の頃生徒として通っていた能開センターに大学生となった私が講師として帰ってこれました。学校教諭を目指していた私に数学の講師として働く機会を与えてくださったからです。数学を教えるという経験が乏しかった私に「確率は表にまとめて考えさせる」「チョークの色を効果的に使い分けて視覚的な理解を促す」などの教えるイロハを教えてくださりました。そのようなたくさん教わった中でも最も考えさせられたのは「持ち帰ったノートを生徒が見て、先生の教えてくれたことを再度理解できる板書を作ることが大事」ということです。これは公立高校の教諭として働く私が今でも大事にしていることです。能開センターでの講師経験が私の「教える」原点です。
「教える」原点
中学生の頃生徒として通っていた能開センターに大学生となった私が講師として帰ってこれました。学校教諭を目指していた私に数学の講師として働く機会を与えてくださったからです。数学を教えるという経験が乏しかった私に「確率は表にまとめて考えさせる」「チョークの色を効果的に使い分けて視覚的な理解を促す」などの教えるイロハを教えてくださりました。そのようなたくさん教わった中でも最も考えさせられたのは「持ち帰ったノートを生徒が見て、先生の教えてくれたことを再度理解できる板書を作ることが大事」ということです。これは公立高校の教諭として働く私が今でも大事にしていることです。能開センターでの講師経験が私の「教える」原点です。
善き未来へ向けて
この度は創立50周年おめでとうございます。私は小学5年生で生徒として入塾し高校受験、大学受験の生徒として、そして大学以降はチューターとして大学院卒業までお世話になりました。思えば人生の14年間という非常に長い時間を能開センターに関わらせていただきました。仲間たちと切磋琢磨し夢に向かって勉学に励んだ生徒時代、そんな子どもたちを支えるお手伝いをしたチューター時代、能開センターで過ごした時間は私にとってかけがえのない時間でした。 明るい未来を作るのはいつだって若い子どもたちだと思っています。これからも、未来へ感動の輪を広げ善き未来を作るために、子どもたちの夢を叶えるサポートを続けていただけることを願っております。ワオ・コーポレーションの益々のご発展をお祈り申し上げます。
善き未来へ向けて
この度は創立50周年おめでとうございます。私は小学5年生で生徒として入塾し高校受験、大学受験の生徒として、そして大学以降はチューターとして大学院卒業までお世話になりました。思えば人生の14年間という非常に長い時間を能開センターに関わらせていただきました。仲間たちと切磋琢磨し夢に向かって勉学に励んだ生徒時代、そんな子どもたちを支えるお手伝いをしたチューター時代、能開センターで過ごした時間は私にとってかけがえのない時間でした。 明るい未来を作るのはいつだって若い子どもたちだと思っています。これからも、未来へ感動の輪を広げ善き未来を作るために、子どもたちの夢を叶えるサポートを続けていただけることを願っております。ワオ・コーポレーションの益々のご発展をお祈り申し上げます。
出会い、学びの場
ある日、突然見知らぬお二人が「●●先生とという方はおいでですか?」と私を尋ねてこられました。 話を聞くと、TさんとHくんという、私が中3時に担当をした2人が晴れて結婚をすることになったとのこと。 その2人が「僕たちの出会いは能開センターという塾だった」「その塾で●●先生にすごくお世話になった」「能開はすごく楽しかった」と話をしているらしく、それを聞いたお二人が披露宴でサプライズの「ビデオレター」を届けたい、と尋ねてくれたのです。 TさんとHくんのことは私もよく覚えており、驚くとともにっても幸せな気持ちになったことを、今も覚えています。 ビデオレターの撮影の件は、もちろん引き受けさせてもらいました。 後日、TさんとHくんがビデオレターのお礼と、そろって校舎に来てくれて昔話に花が咲きました。 卒業後、何年も経っているのに「お世話になった方」として覚えてもらえていること、そして結婚の報告をわざわざしてもらえたことは本当にうれしかったです。 能開センターは学びの場です。そして同時に出会いの場です。 その出会いが、子ども達の人生に大きな影響を与えることは少なくありません。 私たちの存在が、他人の人生に少しでも影響を与えられるとするならば、こんな素敵な仕事はないのではないでしょうか? これからも子ども達にとって、出会い、学び、成長する能開センターでありたいと思います。
出会い、学びの場
ある日、突然見知らぬお二人が「●●先生とという方はおいでですか?」と私を尋ねてこられました。 話を聞くと、TさんとHくんという、私が中3時に担当をした2人が晴れて結婚をすることになったとのこと。 その2人が「僕たちの出会いは能開センターという塾だった」「その塾で●●先生にすごくお世話になった」「能開はすごく楽しかった」と話をしているらしく、それを聞いたお二人が披露宴でサプライズの「ビデオレター」を届けたい、と尋ねてくれたのです。 TさんとHくんのことは私もよく覚えており、驚くとともにっても幸せな気持ちになったことを、今も覚えています。 ビデオレターの撮影の件は、もちろん引き受けさせてもらいました。 後日、TさんとHくんがビデオレターのお礼と、そろって校舎に来てくれて昔話に花が咲きました。 卒業後、何年も経っているのに「お世話になった方」として覚えてもらえていること、そして結婚の報告をわざわざしてもらえたことは本当にうれしかったです。 能開センターは学びの場です。そして同時に出会いの場です。 その出会いが、子ども達の人生に大きな影響を与えることは少なくありません。 私たちの存在が、他人の人生に少しでも影響を与えられるとするならば、こんな素敵な仕事はないのではないでしょうか? これからも子ども達にとって、出会い、学び、成長する能開センターでありたいと思います。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
学校≦能開
能開センターで初めて担任を持った時の話です。 集合形式で教えた経験がほとんどない状況で、いきなり中学3年生、しかもトップ高校を目指すクラスを任されました。教科的な予習はもちろん、ホームルームでの話題を考えたり、板書計画を練ることなどにも時間がかかり、何だか大変な仕事に就いてしまったと、若干、後悔するような気持ちにもなっていました。生徒も、経験が浅い私に対して、反抗とまではいかないにしても、かなり牽制していたのではないかと思います。それでも、とにかく志望高校に受からせてあげたいという気持ちで、毎週、自分なりに一生懸命に授業を続けていました。 夏になり、講習会では25日間もの間、毎日毎日授業をし面談もしたことで、生徒との距離感が一気に縮まり、少しは頼られる先生になれたかもしれないという実感が湧いてきました。 その後、クラスのみんな一つになって、春の受験まで突っ走りました。みんなの進学先も決まり、中学3年生としてのクラスは解散。少し寂しい気持ちで4月を迎えた中、そのクラスの生徒数名が訪ねてきました。 送り出してからまだ半月も経っていないので、何があったのか見当もつかない心持でいると、分厚い1冊のノートを手渡されました。表紙にはクラス日誌とあり、中を見ると9月から3月まで、毎回の私の授業について、感想やダメ出し、その日のネクタイの柄やホームルームで話したことなどが記載されていていました。私に見つからないよう、私が授業で教えた日には必ず書いていたと言われ、とてつもなく感動しました。一部の生徒だけでやっていた、ではなく、24名のクラス全員が、回しながらずっと付けてくれていたことが、本当に嬉しく、この日誌は最高の財産となっています。この日誌を受け取り、能開生ってこんなに素晴らしいんだ。能開って「学校≦能開」になれる場所なんだ。そう思わせてくれた出来事でした。
「教える」原点
中学生の頃生徒として通っていた能開センターに大学生となった私が講師として帰ってこれました。学校教諭を目指していた私に数学の講師として働く機会を与えてくださったからです。数学を教えるという経験が乏しかった私に「確率は表にまとめて考えさせる」「チョークの色を効果的に使い分けて視覚的な理解を促す」などの教えるイロハを教えてくださりました。そのようなたくさん教わった中でも最も考えさせられたのは「持ち帰ったノートを生徒が見て、先生の教えてくれたことを再度理解できる板書を作ることが大事」ということです。これは公立高校の教諭として働く私が今でも大事にしていることです。能開センターでの講師経験が私の「教える」原点です。
「教える」原点
中学生の頃生徒として通っていた能開センターに大学生となった私が講師として帰ってこれました。学校教諭を目指していた私に数学の講師として働く機会を与えてくださったからです。数学を教えるという経験が乏しかった私に「確率は表にまとめて考えさせる」「チョークの色を効果的に使い分けて視覚的な理解を促す」などの教えるイロハを教えてくださりました。そのようなたくさん教わった中でも最も考えさせられたのは「持ち帰ったノートを生徒が見て、先生の教えてくれたことを再度理解できる板書を作ることが大事」ということです。これは公立高校の教諭として働く私が今でも大事にしていることです。能開センターでの講師経験が私の「教える」原点です。