「授業中寝ている生徒は全く悪くない、悪いのは彼を寝かせたあなた。」
入社したときの最初の上司に言われた言葉です。今思えばあたり前なのですが、当時は衝撃的なフレーズで、私の中で「パラダイムシフト(価値観の大転換)」が起こりました。他にも「脳に汗をかかせろ」「退屈(ヒマ)させるな」「授業はジェットコースター(急転直下するときもあるし、ちょっと安心する時間もある)だ」などたくさん教わりました。模擬授業でダメ出しされることも日常茶飯事。模擬授業開始後10分も経たないうちに「つまらない!」と怒られました(笑)。「まだ10分じゃん!」と、そのときは腹が立ちましたが、「じゃあ、やってやるよ!」くらいの気持ちになり、それ以来授業では「10分に1回『何か』やる」ことをモットーにここまで走ってきました。今も最前線に立ち、この仕事を続けていられるのはこの時期があったおかげです。今の若手にはそういう機会はあるのかな、などといらぬ心配をしつつ、今夜の『何か』は何にしよう~?とワクワクしながら講義の準備を進めている今このひとときをとても幸せに感じています。
その他のエピソード
チームでの目標達成
学習塾にとって4月の生徒数は、営業的にも教育的にも大きな意味を持つ数値です。 新たに入会してくれた一人ひとりの子どもたちの未来に、私たちが関わることができる——その重みを胸に、毎年4月の目標に向き合っています。 当時、大阪南部の校舎責任者だった私は、日報に「校舎目標まであと○名」と書き始めたのがきっかけでした。ある時ふと思い立って「南エリアであと○名」とエリア全体のカウントダウンに切り替えてみたところ、その日報にメンバーたちが次々と反応してくれたのです。「今、1名入会した!」「あと少し!」とやり取りが広がり、見事にエリア全体で目標を達成することができました。その数字の一つひとつが、これから学びをスタートする子どもたちの存在だと思うと、達成の喜びはひとしおでした。 普段は校舎に一人で業務している中では決して味わえない一体感と高揚感——あの時の感動は、今も鮮明に覚えています。それから数年が経ち、カウントダウンはいつしか恒例の文化となりました。そして3年前、本部所属として校舎を持たない立場になった私は、一人のスタッフにカウントダウン担当をお願いしました。その方を中心に、県全体のメンバーが一つの目標に向かって動いている姿を目にした時、また違う種類の感動がありました。 小さなきっかけから生まれた習慣が文化として根付き、次の世代へと受け継がれていく——そしてその先には、より多くの子どもたちの成長に寄り添える環境が広がっている。その光景に、チームで仕事をすることの喜びと意味を、改めて深く実感しました。 校舎で一人黙々と業務をこなす日々の中で、皆と同じ目標を追い、共に喜べる瞬間がある。数字の向こう側にいる子どもたちのために、これからもチームで力を合わせていきたいと思っています。
チームでの目標達成
学習塾にとって4月の生徒数は、営業的にも教育的にも大きな意味を持つ数値です。 新たに入会してくれた一人ひとりの子どもたちの未来に、私たちが関わることができる——その重みを胸に、毎年4月の目標に向き合っています。 当時、大阪南部の校舎責任者だった私は、日報に「校舎目標まであと○名」と書き始めたのがきっかけでした。ある時ふと思い立って「南エリアであと○名」とエリア全体のカウントダウンに切り替えてみたところ、その日報にメンバーたちが次々と反応してくれたのです。「今、1名入会した!」「あと少し!」とやり取りが広がり、見事にエリア全体で目標を達成することができました。その数字の一つひとつが、これから学びをスタートする子どもたちの存在だと思うと、達成の喜びはひとしおでした。 普段は校舎に一人で業務している中では決して味わえない一体感と高揚感——あの時の感動は、今も鮮明に覚えています。それから数年が経ち、カウントダウンはいつしか恒例の文化となりました。そして3年前、本部所属として校舎を持たない立場になった私は、一人のスタッフにカウントダウン担当をお願いしました。その方を中心に、県全体のメンバーが一つの目標に向かって動いている姿を目にした時、また違う種類の感動がありました。 小さなきっかけから生まれた習慣が文化として根付き、次の世代へと受け継がれていく——そしてその先には、より多くの子どもたちの成長に寄り添える環境が広がっている。その光景に、チームで仕事をすることの喜びと意味を、改めて深く実感しました。 校舎で一人黙々と業務をこなす日々の中で、皆と同じ目標を追い、共に喜べる瞬間がある。数字の向こう側にいる子どもたちのために、これからもチームで力を合わせていきたいと思っています。
私の原点
中学受験、高校受験、大学受験、そして大学生の時はチューターとして大変お世話になりました。 幼少期は地元でぬくぬくと過ごしていたため、世の中にはこんなに賢い人達が居るんだと周りの学力に恐れ戦いた小学生時代。もうこれ以上歴史について暗記することは無いだろうと心に誓った中学時代。部活終わりにおにぎりを食べながら小走りで能開に向かっていた高校時代。どの時期も大変だった記憶はありますが、何より能開センターの空気感が大好きで、先生方のおかげでどの受験期も何とか乗り越えることができました。 そして有難いことに大学時代はそのままチューターとして働かせていただきました。学生時代は憂鬱だったクラス分けテストや、夏期・冬期・春期講習、もちろん普段の授業に対しても、どの先生方も生徒のために随分前から沢山準備をして下さっていて、当時はその有り難さを十分に理解できていなかったと密かに反省し、少しでも力になればと思いながら働いておりました。今では夢を叶えて医師として働いておりますが、今の私を作ってくれたのは能開の先生方、同じ受験期を乗り越えた同級生、そして能開へ通わせてくれた両親であり、皆さんへの感謝の気持ちを忘れず、これからも精進して参ります。
私の原点
中学受験、高校受験、大学受験、そして大学生の時はチューターとして大変お世話になりました。 幼少期は地元でぬくぬくと過ごしていたため、世の中にはこんなに賢い人達が居るんだと周りの学力に恐れ戦いた小学生時代。もうこれ以上歴史について暗記することは無いだろうと心に誓った中学時代。部活終わりにおにぎりを食べながら小走りで能開に向かっていた高校時代。どの時期も大変だった記憶はありますが、何より能開センターの空気感が大好きで、先生方のおかげでどの受験期も何とか乗り越えることができました。 そして有難いことに大学時代はそのままチューターとして働かせていただきました。学生時代は憂鬱だったクラス分けテストや、夏期・冬期・春期講習、もちろん普段の授業に対しても、どの先生方も生徒のために随分前から沢山準備をして下さっていて、当時はその有り難さを十分に理解できていなかったと密かに反省し、少しでも力になればと思いながら働いておりました。今では夢を叶えて医師として働いておりますが、今の私を作ってくれたのは能開の先生方、同じ受験期を乗り越えた同級生、そして能開へ通わせてくれた両親であり、皆さんへの感謝の気持ちを忘れず、これからも精進して参ります。
号泣の生徒への最後のアドバイス
沖縄への転勤が決まった2011年の国立大学前期の合格発表、佐賀大学医学部医学科を志望していた生徒が不合格で目の前で号泣。後期も同大学の同じ学科を受験すると言う。 試験は面接だけ。最後のアドバイスは「女優になれ」。 募集要項には佐賀大学医学部医学科の求める人物像が書いてあったので、その通りの人物を演じるようにアドバイス。 沖縄の首里校へ赴任した後、三日月校の後任の校責T先生から電話。例の生徒が合格したので本人が話したいと来校しているとのこと。電話でおめでとうとお祝いの言葉をかけ、ご自宅の保護者にもお祝いの電話。その後島根に転勤になり、彼女が出雲大社へ旅行に来たついでに学園通り校に遊びに来てくれた。どこにいても心のつながりが感じられるエピソード。
号泣の生徒への最後のアドバイス
沖縄への転勤が決まった2011年の国立大学前期の合格発表、佐賀大学医学部医学科を志望していた生徒が不合格で目の前で号泣。後期も同大学の同じ学科を受験すると言う。 試験は面接だけ。最後のアドバイスは「女優になれ」。 募集要項には佐賀大学医学部医学科の求める人物像が書いてあったので、その通りの人物を演じるようにアドバイス。 沖縄の首里校へ赴任した後、三日月校の後任の校責T先生から電話。例の生徒が合格したので本人が話したいと来校しているとのこと。電話でおめでとうとお祝いの言葉をかけ、ご自宅の保護者にもお祝いの電話。その後島根に転勤になり、彼女が出雲大社へ旅行に来たついでに学園通り校に遊びに来てくれた。どこにいても心のつながりが感じられるエピソード。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
チームでの目標達成
学習塾にとって4月の生徒数は、営業的にも教育的にも大きな意味を持つ数値です。 新たに入会してくれた一人ひとりの子どもたちの未来に、私たちが関わることができる——その重みを胸に、毎年4月の目標に向き合っています。 当時、大阪南部の校舎責任者だった私は、日報に「校舎目標まであと○名」と書き始めたのがきっかけでした。ある時ふと思い立って「南エリアであと○名」とエリア全体のカウントダウンに切り替えてみたところ、その日報にメンバーたちが次々と反応してくれたのです。「今、1名入会した!」「あと少し!」とやり取りが広がり、見事にエリア全体で目標を達成することができました。その数字の一つひとつが、これから学びをスタートする子どもたちの存在だと思うと、達成の喜びはひとしおでした。 普段は校舎に一人で業務している中では決して味わえない一体感と高揚感——あの時の感動は、今も鮮明に覚えています。それから数年が経ち、カウントダウンはいつしか恒例の文化となりました。そして3年前、本部所属として校舎を持たない立場になった私は、一人のスタッフにカウントダウン担当をお願いしました。その方を中心に、県全体のメンバーが一つの目標に向かって動いている姿を目にした時、また違う種類の感動がありました。 小さなきっかけから生まれた習慣が文化として根付き、次の世代へと受け継がれていく——そしてその先には、より多くの子どもたちの成長に寄り添える環境が広がっている。その光景に、チームで仕事をすることの喜びと意味を、改めて深く実感しました。 校舎で一人黙々と業務をこなす日々の中で、皆と同じ目標を追い、共に喜べる瞬間がある。数字の向こう側にいる子どもたちのために、これからもチームで力を合わせていきたいと思っています。
チームでの目標達成
学習塾にとって4月の生徒数は、営業的にも教育的にも大きな意味を持つ数値です。 新たに入会してくれた一人ひとりの子どもたちの未来に、私たちが関わることができる——その重みを胸に、毎年4月の目標に向き合っています。 当時、大阪南部の校舎責任者だった私は、日報に「校舎目標まであと○名」と書き始めたのがきっかけでした。ある時ふと思い立って「南エリアであと○名」とエリア全体のカウントダウンに切り替えてみたところ、その日報にメンバーたちが次々と反応してくれたのです。「今、1名入会した!」「あと少し!」とやり取りが広がり、見事にエリア全体で目標を達成することができました。その数字の一つひとつが、これから学びをスタートする子どもたちの存在だと思うと、達成の喜びはひとしおでした。 普段は校舎に一人で業務している中では決して味わえない一体感と高揚感——あの時の感動は、今も鮮明に覚えています。それから数年が経ち、カウントダウンはいつしか恒例の文化となりました。そして3年前、本部所属として校舎を持たない立場になった私は、一人のスタッフにカウントダウン担当をお願いしました。その方を中心に、県全体のメンバーが一つの目標に向かって動いている姿を目にした時、また違う種類の感動がありました。 小さなきっかけから生まれた習慣が文化として根付き、次の世代へと受け継がれていく——そしてその先には、より多くの子どもたちの成長に寄り添える環境が広がっている。その光景に、チームで仕事をすることの喜びと意味を、改めて深く実感しました。 校舎で一人黙々と業務をこなす日々の中で、皆と同じ目標を追い、共に喜べる瞬間がある。数字の向こう側にいる子どもたちのために、これからもチームで力を合わせていきたいと思っています。
私の原点
中学受験、高校受験、大学受験、そして大学生の時はチューターとして大変お世話になりました。 幼少期は地元でぬくぬくと過ごしていたため、世の中にはこんなに賢い人達が居るんだと周りの学力に恐れ戦いた小学生時代。もうこれ以上歴史について暗記することは無いだろうと心に誓った中学時代。部活終わりにおにぎりを食べながら小走りで能開に向かっていた高校時代。どの時期も大変だった記憶はありますが、何より能開センターの空気感が大好きで、先生方のおかげでどの受験期も何とか乗り越えることができました。 そして有難いことに大学時代はそのままチューターとして働かせていただきました。学生時代は憂鬱だったクラス分けテストや、夏期・冬期・春期講習、もちろん普段の授業に対しても、どの先生方も生徒のために随分前から沢山準備をして下さっていて、当時はその有り難さを十分に理解できていなかったと密かに反省し、少しでも力になればと思いながら働いておりました。今では夢を叶えて医師として働いておりますが、今の私を作ってくれたのは能開の先生方、同じ受験期を乗り越えた同級生、そして能開へ通わせてくれた両親であり、皆さんへの感謝の気持ちを忘れず、これからも精進して参ります。
私の原点
中学受験、高校受験、大学受験、そして大学生の時はチューターとして大変お世話になりました。 幼少期は地元でぬくぬくと過ごしていたため、世の中にはこんなに賢い人達が居るんだと周りの学力に恐れ戦いた小学生時代。もうこれ以上歴史について暗記することは無いだろうと心に誓った中学時代。部活終わりにおにぎりを食べながら小走りで能開に向かっていた高校時代。どの時期も大変だった記憶はありますが、何より能開センターの空気感が大好きで、先生方のおかげでどの受験期も何とか乗り越えることができました。 そして有難いことに大学時代はそのままチューターとして働かせていただきました。学生時代は憂鬱だったクラス分けテストや、夏期・冬期・春期講習、もちろん普段の授業に対しても、どの先生方も生徒のために随分前から沢山準備をして下さっていて、当時はその有り難さを十分に理解できていなかったと密かに反省し、少しでも力になればと思いながら働いておりました。今では夢を叶えて医師として働いておりますが、今の私を作ってくれたのは能開の先生方、同じ受験期を乗り越えた同級生、そして能開へ通わせてくれた両親であり、皆さんへの感謝の気持ちを忘れず、これからも精進して参ります。
号泣の生徒への最後のアドバイス
沖縄への転勤が決まった2011年の国立大学前期の合格発表、佐賀大学医学部医学科を志望していた生徒が不合格で目の前で号泣。後期も同大学の同じ学科を受験すると言う。 試験は面接だけ。最後のアドバイスは「女優になれ」。 募集要項には佐賀大学医学部医学科の求める人物像が書いてあったので、その通りの人物を演じるようにアドバイス。 沖縄の首里校へ赴任した後、三日月校の後任の校責T先生から電話。例の生徒が合格したので本人が話したいと来校しているとのこと。電話でおめでとうとお祝いの言葉をかけ、ご自宅の保護者にもお祝いの電話。その後島根に転勤になり、彼女が出雲大社へ旅行に来たついでに学園通り校に遊びに来てくれた。どこにいても心のつながりが感じられるエピソード。
号泣の生徒への最後のアドバイス
沖縄への転勤が決まった2011年の国立大学前期の合格発表、佐賀大学医学部医学科を志望していた生徒が不合格で目の前で号泣。後期も同大学の同じ学科を受験すると言う。 試験は面接だけ。最後のアドバイスは「女優になれ」。 募集要項には佐賀大学医学部医学科の求める人物像が書いてあったので、その通りの人物を演じるようにアドバイス。 沖縄の首里校へ赴任した後、三日月校の後任の校責T先生から電話。例の生徒が合格したので本人が話したいと来校しているとのこと。電話でおめでとうとお祝いの言葉をかけ、ご自宅の保護者にもお祝いの電話。その後島根に転勤になり、彼女が出雲大社へ旅行に来たついでに学園通り校に遊びに来てくれた。どこにいても心のつながりが感じられるエピソード。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。
不合格にさせてしまった中3受験生
私がワオに入社し、最初の配属先がAxis貝塚校だったときの話です。 当時、私は校担当として配属されました。貝塚校は在籍が100名を超える校舎だったので、校舎責任者の方と私とで、担当する生徒を割り当てて運営をしておりました。 私の担当学年には中3が含まれており、受験に向けて進路指導をしていくことになりました。すでに他の会社で高校受験指導をした経験があったので、そこまで困ることは少なかったのですが、Axisの商品と組み合わせること、講習で勉強時間を追加することなど不慣れな部分は多かったと思います。それでも、生徒本人・保護者としっかりと話をして最適な学習を提案していくことができました。夏期講習、冬期講習、入試直前特訓を経て、あっという間に受験の時期になったことを今でも覚えております。 夏期講習あたりから、中3受験生たちが塾に来ることが多くなり、自然と関係性が出来上がっていきました。直接教科内容の指導をしたことも今となればいい思い出です。不安な気持ちを吐露する生徒を後押ししたりしながら公立高校入試の日を迎えました。直前の応援電話でも前向きな言葉を投げかけました。しかし、2人の生徒が不合格になってしまったのです。 あの時の申し訳ない気持ちは忘れることができません。私がもう少しAxisで経験を積んでいたら、という後悔の念が残りました。その後、不合格だった2人は私立高校に行き、高校継続にならず、ご縁がなくなってしまいました。 1年の経験を経て、貝塚での2年目を迎えた5月のある日、とある私立高校から封書が届いたのです。中身はお世話になった塾への手紙でした。進学先の私立高校で書いたものだったようですが、不合格になった生徒2人のうち1人のものでした。塾で鍛えらえた、最後まで励みになった、など有難い言葉がたくさん並んでいました。進学先の高校で頑張っていることが確認でき、ほんの少し、後悔の気持ちが弱まった瞬間でした。